舞鶴引揚記念館へ (その3)
引き揚げと舞鶴港・・・S20年(1945)終戦になり、海外から660万人以上の人が帰国。
舞鶴港は引き揚げ港となり、S33年まで続いた。
舞鶴引揚記念館…永久の平和へ願いをこめて!
S63年(1988)4月に開館、「平和の尊さ、平和の祈り」イメージの発信
カランカラン! カランカラン! メロディーも(自動?)
ハナミズキの木が真っ赤に色づき大きな実が成っていた。
下にはドウダンつつじの赤が、向うにはイチョウの黄葉が、秋を感じさせてくれた。
『平和の誓い』 引揚40周年記念
引揚桟橋方面は、右手の裏山の公園を上って300mから良く見えるそうだ。
今はもう記念に小さい橋が残っているだけ。
1番人気と言う『海軍カレー』を注文!辛かったぁ~~
満州からの引揚者は親戚にはいないが、その辛苦の帰国は筆舌に表し難いものだったようだ。
「岸壁の母♪」は帰らぬ息子を待ちわびたという母がいた・・・。
660万人…とは大変な人数、帰国しても戦後の生活はみんな悲惨な生活だったのだ。
それからもうすぐ70年、すっかり豊かな日本になった!
「舞鶴」には戦時中の1~2年住んでいたことがあったのだ。
父の徴用(魚雷をつくっていたと言うが)で来た舞鶴、3~4歳の私はB29の飛来を覚えている!
家の前には2mもの雪が積み上げてあったのも印象に残る。
近くに駅や踏切があったので西舞鶴だったかもしれない。
舞鶴から天橋立へ行く計画だったが、次回に取っておくことにして、
京都縦貫道(途中未完成)を走って京都市内に入った。
(つづく)
舞鶴港は引き揚げ港となり、S33年まで続いた。
舞鶴引揚記念館…永久の平和へ願いをこめて!
S63年(1988)4月に開館、「平和の尊さ、平和の祈り」イメージの発信
カランカラン! カランカラン! メロディーも(自動?)
ハナミズキの木が真っ赤に色づき大きな実が成っていた。
下にはドウダンつつじの赤が、向うにはイチョウの黄葉が、秋を感じさせてくれた。
『平和の誓い』 引揚40周年記念
引揚桟橋方面は、右手の裏山の公園を上って300mから良く見えるそうだ。
今はもう記念に小さい橋が残っているだけ。
1番人気と言う『海軍カレー』を注文!辛かったぁ~~
満州からの引揚者は親戚にはいないが、その辛苦の帰国は筆舌に表し難いものだったようだ。
「岸壁の母♪」は帰らぬ息子を待ちわびたという母がいた・・・。
660万人…とは大変な人数、帰国しても戦後の生活はみんな悲惨な生活だったのだ。
それからもうすぐ70年、すっかり豊かな日本になった!
「舞鶴」には戦時中の1~2年住んでいたことがあったのだ。
父の徴用(魚雷をつくっていたと言うが)で来た舞鶴、3~4歳の私はB29の飛来を覚えている!
家の前には2mもの雪が積み上げてあったのも印象に残る。
近くに駅や踏切があったので西舞鶴だったかもしれない。
舞鶴から天橋立へ行く計画だったが、次回に取っておくことにして、
京都縦貫道(途中未完成)を走って京都市内に入った。
(つづく)

この記事へのコメント
引揚記念館からは、‘母’が待ち続けた桟橋は見えないのですか。
舞鶴にお住まいだったら、ここか懐かしい感じがしたことでしょうね。
かの有名な「岸壁の母♪」の待ちわびた桟橋も今は形だけ。
引揚記念館から300m小高い公園から見てきた妹たちです。
舞鶴での戦争体験が3~4歳の初記憶になっています。
親たち年代の苦労がしのばれます…。
舞鶴といえば「岸壁の母」、660万人もの引揚者がこの港に帰ってきたのですか。戦後70年になりますが体験者は忘れることできませんね。
その体験者も少なくなりもっと伝えて欲しいですね。
静岡に住んでいた伯母も
長男を毎日港まで迎えに
行ったそうです、好きな
お肉も生涯経ってました
同窓会は本当に楽しいひと時でした!
来年も必ず逢いましょう!が、元気のもとになりそうです。
660万人とは想像以上の多くの引揚者だったのです。
やはり史実は伝えて、平和への祈りを忘れないでいたいと思います!
静岡の伯母様も、長男さんの帰りを待ちわびて…、
お肉まで絶たれていたのですね!
息子さんは帰っては来なかった…のですね!辛い!
これからもそんな体験がないように!と思います。